死にたがり日記

体調/日々の所感/ソシャゲのこととか

帰省

 電車から降りると草の匂いがした。古ぼけた駅ではつい数ヶ月前ICカードが使用可能になったとのことで、真新しい機械がぽつんと置かれている。タッチすると数百円ほど残高が足りず、精算機を探すがそんなものはなく、窓口も閉まっていて、焦って駅員さんを呼ぶブザーを鳴らした。改札の外の券売機でチャージしてねとのこと。帰りのことも考えて多めに入れておいた。

 実家まで帰るにはここから三十分ほど車で走らねばならないのだが、私は車が運転できないので、家族が迎えに来るのを駅の前でしばらく待っていた。にび色にほんのすこしだいだい色が混ざった空、色あせた建物たちが並ぶなかで妙に目立つ配色のバス、ひぐらしの声、夏なのにどこかひんやりとした空気、濃いみどりの匂い。ちょうど下校の時間だったのだろう、近くの高校に通う生徒たちが何人か、私と同じように迎えを待っている。

 五感で得られた情報はそれだけだった。

 そのあまりの少なさに拍子抜けする。頭のなか、都会の雑踏に圧迫されていたスペースが急にすかすかになり、そこに「なにもなさ」がするりと入り込む。私はそれに安心したような、逆にこの場所に「取り込まれてしまった」ような、奇妙な気持ちになり、しばらくその場に突っ立っていた。

 

 こんなこと別に誇れることでもなんでもないのだけど、田舎自慢をすると、トップオブ田舎とまではいかないまでもだいたいいいところまでいく。見渡す限り山、山、山。たまに川。地元は県の主要観光地のあるエリアからは離れており、スキー場があるくらい。年間通じてお日様の出ている日が少なく、冬は雪がしんしんと降り積もる。徒歩圏内にはおばけみたいに育った草が生い茂っていて、人よりも虫や両生類のほうが圧倒的に多い。そんなだからか、私の中の幼い頃の記憶というのは、明度の低いものばかりだ。私は勝手に海沿いや島の田舎のことを「明るい田舎」と定義しているが、ここはまぎれもなく「暗い田舎」である。

 同じ県内に住む会社の同僚には「ススキ野原しかない」「トトロ住んでるじゃん」などと揶揄され、同エリアに住んでいるはずの親戚にすら「こんなとこ人の住む場所じゃねえな」と悪態をつかれる。まあ実際暮らしてはいけるのだが、車がなければ生活用品を買いに行くこともできず、ネット接続も不安定で娯楽はほとんどない。一度街に出てしまうとその不便さをしみじみと思い知る。と同時に、現在の住まい付近で歩いてコンビニにゆきジュースを買ったり、サイゼリヤでごはんを食べたりするたびになんだかずるいことをしているような気分になり、胸が痛んだりもする。

 実家は山のふもと、スキー場に向かうまでの道にぽつねんと建っている。もうすこし上にゆけば民宿が立ち並ぶ箇所があり、ほんのちょっとだけにぎやかで、もうすこし下にゆけば小さいながらもスーパーだとか学校がある。しかし、ここにはちょうど「なにもない」のである。立地が道路の真ん前なのもあまりよろしくない。友だちの家みたいに広めの庭的スペースが欲しかったな。「飼うための場所がないから」などと言って犬を飼うことを却下され続けてきた過去を振り返り、ぼんやりと思う。きょうだいの運転する車から降りると誰も手を入れないから伸びに伸びた植物の葉っぱに迎えられた。「それ、さわったらかぶれるやつやからね」そうだっけか。下にはその植物が落としたと思しき枯葉の山ができていた。


 両親にただいま、と言い、夕飯にピーマンと茄子の煮物を食べた。元々食欲は旺盛なほうなのだけど、もりもりご飯を食べている自分にふと気づき驚く。六月頃に心の調子を崩してからずっと、お腹は空くが食欲はない、のような、変な状態だったからだ。いつもの生活から切り離されたことだとか、外的刺激の少なさが功を奏したのかもしれない。夜もここ数日でいちばんよく眠れた。これで持ち直してくれればいいな、と自分のことなのにどこか他人事のように思った。 

 

こうして、わたしの夏休みは始まった。

 

 平日の日中、家のなかには私ひとりになる。この家、この地域を出てから十年以上立つが、私は年々、この家での過ごし方が分からなくなっている。十年とすこしの間に染みついた自分の生活リズムと家族のそれとの若干のズレ。どこか知らない他人の家のようで、なのにすっかり馴染んでしまうことへの違和感。それらすべてをかき消すような懐かしい匂い。

 何もせずゴロゴロしているのが申し訳なかったので食事後の皿洗いをした。そのあと、せっかくカメラを持ってきていることだし、雨が降ってこないうちに散歩をしようと思い立つ。

 家の周りを歩きながら、こんなに何もないのに、小さい頃一体どこで何をして遊んでいたのだろうと記憶を探った。果敢に崖を登って木苺を摘んだり、すっぱい草をちぎって噛んだり、トンボやちょうちょを捕まえたり、雪遊びをしたり。予想に反して退屈な記憶は出てこなくて驚いた。もちろん友だちの家で人形遊びをしたり、ゲームをしたりもしていたのだけど、きっとそれより草や虫に囲まれて遊ぶほうが楽しかった(草や虫からすればいい迷惑だとは思うが)。真っ赤な木苺の甘酸っぱさや雪に埋もれるふくらはぎのことは、思い出してもそう悪い気分にはならない。

 澄んだつめたい水の流れる川原、やたら背丈の高いハルジオンが占領する空き地、ひっそりと生えているドクダミ、あたりをすいすい飛び回るトンボたち。花を手折ることなく、虫の翅に手を伸ばすこともなく、そっとカメラにおさめる。数年前に買った一眼レフはいまだに使いこなせない。しかし写真を撮るという行為は、喋りたくもないし文章も書きたくない、絵は描けない、のようなときに心を鎮めるのに役に立っている。

 そうして三十分ほどを過ごしたが、やはり「何もない」にぶちあたり、やることが思いつかなくなってしまった。かつて自転車の練習をした広めの駐車場のアスファルトはひびわれ(私の歯とお揃いだ)、草は伸び放題。私の腕ではそこにある対象物を撮るのが精一杯で、このような「何もない」を撮ることはとても難しい。すこし坂を上がれば墓地やお宮さんがあるが、そのあたりをうろうろするのは気が引ける。ご近所さんに会うのも気まずいし、家族から得た「クマの繁殖期」という情報も気になる。どうしたものか、ぐるぐると同じ場所を巡りつつ、思い描いたのは母校のことだった。

 私の通っていた小学校はちょうど私の卒業と同時に廃校になった。今は地域の集会所になっている。廃校になってから何度か足を運んだ記憶があるが、特にそちら方面に出向く用事もなく、もうずうっと長い間立ち寄っていない。子どもの足で十分少々、今ならもっと簡単に辿り着ける。

 行ってみるか。何か懐かしいものを見つけられるかもしれない。重く垂れ込みはじめた灰色の雲を気にしながら、墓地へ向かう方とは別の坂道を登っていく。

 かつてわたしときょうだい(もしかしたら近所のともだちもだったかもしれない)は小学校へと続くこの湿った坂道のことを「したいロード」と呼んでいた。カエルやミミズ、ちいさな虫たちが潰れて死んでいることが多かったからだ。車に轢かれたのか、誰か人間に踏まれてしまったのか、不慮の事故なのかは分からない。死んだものを指さすのはよくないんだよという誰かの教えを胸に、指を隠すようにぎゅっと手を握りこむ。そうして、まだ空気の冷たい夏の朝、ずんずんと坂道を進んでいく。夏は死の季節なのだ、と、今でも思うのは、この坂道のせいかもしれなかった。

 その「したいロード」だが、そもそも通りかかる生きものが随分と減ったらしい。褪せたでこぼこのアスファルトからは湿った匂いがするものの、それだけだった。道の端っこ、土の壁には土砂崩れ防止の金網が張られていて、その隙間から青々とした葉っぱや太いつるがはみ出し、存在感を示している。時折、名前も知らないようなちいさな白い花がぽつぽつと咲いていた。

 しばらく行けば、湧き水がパイプを通ってさらさら流れる岩場がある。昔とちっとも変わっていないなあと目を細め、そこで一息をついた。灰色の雲はどんどん厚くなってきている。そろそろ夕立がくるだろうか。

 ここから先は細い曲がり道が続く。どこかで草刈りをしたあとの匂いがする。古い民家と、おそらくそのおうちのものと思われる物干し竿にひとの生活の気配がする。

 そのとき、頭のなかで、この先の曲がりくねった道のことが次々とフラッシュバックしていった。それは質量を持った記憶というよりも、ここのところ毎日のように見ていた夢の再上映に近かった。

 足が止まる。きっとほんの少し混乱したのだと思う。夢は記憶なのだから、寝ている間に六年間歩き続けたこの道のことを思い出すのはなんら不思議なことではない。それでも、それなりに生きた人生のうちのたった六年間だ。もっと思い出深かったこともあっただろうに、どうしてこの、「何もない」道なのだろう。どうしてこの道のことを、何度も何度も何度も何度も夢に見るのだろう。

 子どもの頃の、植物や虫との遊びを思い出しているときは楽しかった。都会よりいくらかやさしい蝉の声や、川のせせらぎ、緑の匂いにたしかに安心した。もしかするとわたしのからだは、この故郷に帰りたがっていたのではないだろうか。思いかけて、首を静かに横に振る。……そう言えればどんなによかっただろう。

 肉体に反して、私の心は穏やかではなかった。どこか、ぞっとしていたのだ。十数年経った今でも、魂がずっとここにあることに。「取り込まれて」しまっている。親元から離れて、職場も見つけて、辛いことのあった過去とも折り合いをつけて、やっと一人で立って歩けるようになったと思っていた。だけど全然そんなことはなかったのだ。ここにいるとまざまざと現実を突きつけられる。私はいまだ、「◯◯さんちのあの子」、あるいは「うちの◯◯」という名前でこの場所を彷徨い続けている。どんくさくて、気弱で、同級生の子の引き立て役だなんて言われて心配なうちの子。ちょっと変なところがあるからいじめてもいい、気持ち悪い子。

 この先、足を進めればそこには小学校の跡地があって、思えば私はそこで、人間社会に挫折したのだ。

 マスクの下からでもわかる、濃い緑の匂い。雨の近づくときの湿った空気。私はくらくらしながら、何か見えないものに押し返されたように、自分の家へ引き返したのだった。

 仕事から帰ってきた家族を迎える。夕ご飯を一緒に食べる。きょうだいとくだらない雑談をする。桃をむいてみんなで食べる。

 私は私という輪郭を完全に失い、ふにゃふにゃだった。桃は甘くて美味しかった。とある誰かが別の世界の果実を食べて元の世界に戻れなくなる昔の話を複数知っているが、なんとなくそのことを思った。あの濃い緑の匂いはもうここにはないのに、不穏な気配は消えないままだった。

 

 夜、なかなか訪れない眠気を待ちながらぼんやりと考える。自分の輪郭がないということ。透明になり、別の大きな何かの一部になること。それが怖くて必死に輪郭を作り上げようとしたのに、うまくいかなくて傷つきからだが壊れた。輪郭を得る過程で感じる無数の痛み、やっとの思いで作り上げたもろい硝子みたいなそれを誰かの一言で簡単に破られたときの虚しさに比べると、取り込まれ、ふにゃふにゃと漂っている今の状態のほうが安心で、楽なのかもしれない。

 「なんにもない」の一部になりたかったなあと思う。木でもいい、草でもいい、虫でも、鳥でも川でも空気でもなんでもいい。肉体の望むまま、自然に取り込まれ透明になりたかった。いまの私はなんだろう。いまの私はこの家の人間、というなんだかもやもやとした存在だ。「なんにもない」とすこしつながっていて、けれど人間だから、「なんにもない」から外に出て「なにか」として生きなければならない。透明になるのと、透明に「される」のとはまったく違う。わたしは透明に「されて」ばかりだ。何もかもにやさしくない人間の社会で、どうやって一個の人間のかたちを保てばいいのか分からない。

 でも。

 でも、壊れる前に、たしかに作ろうとした輪郭があったのでしょう?

 ほんとうにやさしくない、息苦しいこの世界で、それでも生きたいと思った瞬間があったのでしょう?

 眠れない自分に言い聞かせてみる。おでこの部分が熱くなって、涙が出そうになった。そうだよ、と答える元気がない。睡眠薬はなかなか効いてくれそうにない。

 この家で眠るとき、私は自分が胎児に戻ったのではないかと錯覚する。もし、もう一度生まれ直せるなら。諦めて壊した無数の「なにか」の輪郭たちの、その破片を手のひらで撫ぜると血が滲んだ。