死にたがり日記

体調/日々の所感/ソシャゲのこととか

九月、薄情者の部屋

九月になった途端コンビニに並び始めたかぼちゃプリンを見てわたしは夏が終わったことを悟った。ひとびとはイベントごとにパキパキと季節を分けて店を彩っていく。ハロウィンの次はクリスマス、イヴが終わればお正月、みたいに。服売り場では秋にはもう冬服が売っていて、真冬に耐えられなくなってセーターを探しにいくと春服しかなかったりする。四季があって折々の行事ごとを大切にするのが日本の良いところだなんていうが、わたしはひとびとがお金のために勝手に作り出していく「それらしい四季」と「置き去りにした季節」のことを考えては、薄情者、と静かに思う。

とは言うものの、昨日はまた自宅に飾るための花束を買った。知らない種類のコスモスと、われもこう、赤みがかった葉っぱはまたべつの種類のものなのだろうか。先週までひまわりでいっぱいだった箇所は、ピンクの薔薇がいっぱいおいてあった。花の名前は忘れてしまったけれどたくさん花びらのある大きな花もあって、値札には「アンティークピンク」と書かれていた。秋のピンクはどことなくやさしいというか、柔らかいピンクで好きだ。迷ったけれどコスモスが好きなのと、花束になっていてかつ手頃な値段だったのでそれを買った。自分で組み合わせて買うことができたら素敵だろうなと思うけど、選び取ったものを店員さんに見られるのがなんとなく気恥ずかしい。余裕ができたら勉強でもしてみようかな。「余裕ができたら」で横に置いているものがあまりにも多すぎて、そろそろ倒れかかってきそうだ。

 

花束を飾ると部屋にも急に秋が来た。薄情な社会の営みから逃れられなかった薄情者の部屋で、コスモスは可憐に咲き、われもこうはしゃんと背筋を伸ばして涼しげにしている。

 

九月なんていつもなら八月を引きずって暑くて仕方がないのに、突然秋の長雨が始まって終わらない。雨の止んでいる時を見計らって飲み物を買いに行くと、あれだけうるさかった蝉の声はもうしなくなっていて、かわりに秋の虫が鳴いていた。ほんとうの季節までも薄情になってしまったのだろうか。だとしたらそれは人間のせいだな。何も言えない。

この調子だとあと一ヶ月もすれば冬がくる。夏とは方向性の違う死の季節。暗くて白くて静かで、生きものたちがみんな眠るなか、ひとのたくさんいる街ではあちこちがぴかぴかに飾られて光っている。わたしは夏より、冬のほうが好きだ。寒いところで生まれたからというのもあるし、つんとした冷たい空気を吸うとなんだかしゃんとする。あたたかいお茶がおいしい。お鍋もスープもおいしい。ぴかぴかの街で浮かれるひとびとの雰囲気は、照りつける太陽の下ではしゃぐひとびとのそれよりもどこかささやかな感じがして馴染みやすい。今年はどうなるのだか。冬眠するはめにならなければいい、いや、するならするで、一週間全部を冬眠できるようにしてほしい。

雪。雪も好きだ。ぴかぴかの電飾より好き。白い雪であたりが覆われると音も吸い込まれていって、世界に取り残されたような感じがして、それが好きなのだ。あんまり毎日続くと寂しくなってしまうのだけど。地元ではそんな感じ。最近は温暖化のせいもあって、そうでもないのかもしれないが。

 

低気圧なのか二回目のワクチンの副反応の名残なのか、はたまたいつもの虚無なのか。今日も今日とて眠くてだるくて仕方がない。九月は誕生日があるから好き、と、数年前まで思っていたが、自分が何歳になるかも曖昧だし(今年はキリのいい数字なので覚えているが、再来年あたりからまた分からなくなると思う)年を取ったって精神年齢は周回遅れのままだし。「誕生日」というものに対してのポジティブな気持ちがどんどん減っていっている。そうしたら九月のいいところがもう全然あげられなくなって、苦笑してしまった。何もかもが中途半端な自分にぴったりの、夏なのか秋なのかわからない、中途半端な季節なのかもしれない。