死にたがり日記

体調/日々の所感/ソシャゲのこととか

復讐が未遂/胃痛が止まらない

いろんなことがどうしようもない夜、詩でも書いてみようかなと思うが書き方が分からない、あるいはいつも小説だと思って書いているのようなのが詩なのかもしれない。

短歌はやってみたがあまり向いていないと思った。小説も、これは小説ですというテイで二次創作をしているが、自分が上手いと思ったことは一度もない。構成力がまるでないのである。でもなぜだか詩は書けるし向いていると思っている、でもあんまり心に近いから、もしわたしに詩の書き方がわかったとしても、書く勇気は出ないと思う。

詩で思い出すのは小学校三年生の時、担任の先生に褒められたのが嬉しくて、宿題でもないのに詩を書いたり物語を書いたりしていたことだ。書いたことがあったかなかったか分からないが同級生に睨まれたのが怖くてやめてしまった。やめなきゃよかったのに。あと、中学生のころ、周りで流行っていたSNSで恋愛についての詩を毎日のように書いていた。こっちは今すぐやめろと言いたい。そんな鋳型にはめた感情を自分の言葉と勘違いしたような小っ恥ずかしいものを量産するな。SNSでは当時好きだった人(あの頃は、人はみんな漫画みたいに恋してなんやかんやでつがいになるんだと思っていたので、わたしも巧みな妄想力を駆使し、周りにならって好きな人を作っていた)も多分投稿を見ていた。その人にあてたものもあった。本当に恥ずかしい。

幸か不幸か、多分全部物理的に燃えているか電子的方法で削除されているので、当時わたしがどんなものを書いていたのかはほとんど思い出せないし見返せない。中学時代のアレコレは本当に見たくないが小学生の頃何を見て何を書いていたのかは見返してみたかったなあと思う。高校からは二次創作を覚えてしまったので詩は書かなくなった。今は時々、好きな人の詩集を開く程度だ。

 

わたしはお喋りが不得意だし、自分の思ってることそのままを話せるような友だちもいなかったので、とにかく何かを書いていないと落ち着かなかった。大学時代も二次創作のアカウントの他に今みたいに真っ暗な感情を吐き出すようなアカウントがあって、そこで毎日ぶつぶつ呟いていた。Tumblrにも手を出した。一回だけ、フォロワーに褒められたことがある。あなたの文章は傷口に消毒液をかけたみたいに痛くて鮮やかだ、と、そんな風に言われたような気がする。もしかしたら全然違ったかもしれないけど、とにかく、痛みを褒められた。嬉しかったな。今もわたしはずっとずっと痛いが、何を書いても表層にそれが出てくることはあまりなく、或いは滲んでいても滅多に見つけてもらえず、これって大人になったのか、退化してしまったのか、どっちなんだろうと考える。言葉は刃物で、若い頃はぶんぶんと振り回せていたそれを、今は手に取って眺めてどうすればいいんだろうと考えてしまう。だけどわたし、きっと今でも誰かを傷つけたい。それは差別的な言動や誰かの足を踏んで傷つけるという意味ではなくて、うまく言えないんだけど、とにかく目の前のあなたに傷ついてほしいのであった。やさしいねとか言われるよりよほど、痛いよと言われたいのである。怖いけど。痛いよ、と言われて突き飛ばされるのは、とてもとても怖いけど。それがわたしにとっての世界への復讐なのだと思う。それは、いまだ、未遂だ。

 

 

学校に行く夢ばかり見る。課題をやっていない、数学の教科書がない、国語のノートがない、体操服がない、時間割を知らない、バスに間に合わない。不安な状態で学校に行ったり行けなかったりする。焦っているときに見る夢なのだが、一体何を焦っているのだろう。ピンとくるものが実はあまりなかったりする。あまりにも生活、というか体調に余裕がなさすぎるのか。

一ヶ月分の胃の薬を手に今日はスープを作った。作ったというかめんつゆをあっためただけだが。麺も米も今ちょっときついのでスープ、バナナ、ヨーグルトで誤魔化している。かつてこんなことがあっただろうか?いやあったかもしれない。胃がおかしくなって同僚に誘われたサイゼに行けなかったあの頃。ただちょっと今は不眠のこともあるから、良くなってないときに重なったのが悪かったよね。睡眠も食事も取れないならあとはどう元気になれというのか。様子を見ましょうという医師の言葉は残酷である。言われた通り「様子を見る」をするが、次だめなら胃カメラを予約するし、心療内科も違うところを探す。

そんなことをぼんやり考えつつ、ちょっと大きくていつものよりおいしそうなバナナを買ってしまった。これくらいならゆるされるか。

 

焼きバナナ

齢三十を迎えて早々、胃が再びおしまいになった。治りかけのときに食前の薬を忘れて王将でモリモリ中華を食べたからである。バカなのか?餃子はおいしかったがそういえばわたしにんにく食べすぎるとお腹壊すんだったわ。バカだな。偶然出会った同僚からの誘いだったので断りづらかったのもあると言い訳を添えておく。

本日、豆乳と豆腐とヨーグルトとバナナと白湯しか摂取していない。おかげで昨日よりはいくらかみぞおちの痛みがマシである。バナナは特にとても好きというわけではないのだけど、昔からエネルギーのもとというし食べとけば死なないだろうという安易な判断のもとメニュー入りした。今日は焼きバナナ、なるものを試したみた。トースターのなかでみるみる黒くなるバナナの皮に一抹の不安を覚えたが中身はあったかいバナナだった。あったかいバナナ、意外とおいしかった。晩ごはんだったのでせめて雰囲気を出すためにオリーブオイルと黒胡椒をかけて食べるレシピでいただいた。あとは白湯。おかゆをつくる気力もないしレンジも好きな時に使えないので胃を温めるのに苦心している。

 

胃が受け付けないだけで普通に食欲はあるので、帰り道の焼き鳥屋さんのテイクアウトが気になるし、カレーが食べたい。オムライスとか、ハンバーグとかもたべたい。コロナ禍が始まる前はふらっとお気に入りの洋食屋さんに行って食べていたし、コロナ禍の間もすこし落ち着いている時期にたまにひとりでふらっとお店に入ってごはんを食べたりしていた。今はもうコロナとか関係なく自分の肉体の問題でそういうことが一切できない。頭がやりたいと言っても胃が受け付けない。食欲の秋とは一体。体と心がちぐはぐなのはいやだね。胃カメラの手配をしてもらおうかどうか悩んでいるが、引っ越し先探しも控えているため、もう少し白湯と市販の胃薬で様子を見てみようと思う。

 

水差しで根っこを出していたミントを植え付けてみたのだが一本枯れてしまった。もう一本はなんか元気そうだが、ちょっと新芽が黄色く見えてしまって心配で、水足りないのかなと思ってまた水をやってしまう。単なる光の加減かもしれない。明日この子もシオシオになっていたら悲しいな、胃がシクシクしちゃうな。

普段ズボラなくせに何故か植物に関しては放っておく、が上手にできない。人に関してももしかしたらそうなのかもしれない。

このまえカウンセリングに行って先生に言われてふーんと思ったのが、「一人が好き、というのがあなたの元々の性質か、育った環境によって歪んでしまった認知によってそう思わされているのか、今の段階ではわかりかねる」ということだった。カウンセリングは毎回毎回、心から棘を抜いて血を流しながら根っこをほぐしている感じでかなり疲れる。あいつもあいつもあいつも大嫌いだ、絶対に許さないからな、と暴れていたかつてのわたしには残念ながら同化できないのだが(疲れた)、暴れている自分自身は知覚できるので毎日見つめている。その怒りたるや、きっと世界のひとつやふたつめちゃくちゃにして燃えるゴミにできると思う。わたしは、この世の九割が嫌いだから、そういうことを考えているときの方が元気が出る。今だってほとんどが嫌いだよ。かつてのわたし、世界を滅亡させてくれ。

 

 

ろうそくは消さずに

並べられた色とりどりの花のなかでそのダリアは燃えていた。赤みがかったオレンジ色と黄色のグラデーション。「燈炎」という名前らしい。もうすぐ誕生日だし花とケーキでも買って帰ろう、と帰り道をうろちょろしていたわたしは引き寄せられるようにその丈夫そうな茎に手を伸ばした。おとといの夜のことだった。

 

いつも何歳になったか人に教えてもらわないと分からないくらいだが今年はちょうど三十になる年なので覚えていた。自然学校、修学旅行、センター試験(あれは雪だったか)。節目の行事すべてに雨を呼んだわたしは自分の年齢の節目にも台風を呼んでしまった。いま、目が半分しか開かなくて頭が痛い。でも気圧のおかげ(せい?)で普段よりもよく眠れたような気がする。

人知れず、二十九の半年くらいを不眠と体調不良で過ごしたので、たまたま通話した何も知らない元同僚に「生きてるだけでめでたい」と言われてちょっとじーんときてしまった。そうかもしれないし、でもやっぱりまた無駄に生き延びてしまったなあという感じも強い。ただ、花屋で燃え盛る花を手に取り部屋に飾るあたり、わたしの本能はまだ生きたがっているのだと思う。やりたいことをやってから死にたい。やりたいことができるようになるための基盤をつくっているのがきっと今なので、もう少しだけ踏ん張っていたい。だからダリア、まだ枯れないで、部屋で燃えていてほしい。わたしはこの炎を吹き消さない。ものいわぬものからの励ましはつまり、自分のなかにあるものが投影されたものだと思うから。今年も生き延びようと思います。わたしは友だちがあまりいないし、いてもほとんど連絡を取らないしくることも少ない。でも今年も大事なひとたちからおめでとうって言ってもらえて嬉しかった。これからもよろしくお願いします。年末の挨拶みたいだな。

 

と言いつつ早速ミントを枯らした。水のやりすぎでせっかく出ていた目がクッタクタになっていた。もっとほったらかしにしておいてよかったのだと思う。水のやりすぎで植物が枯れるといえばポルノグラフィティの「サボテン」を思い出す。まさか自分が枯らす側だとは思わなかった。

根がどうなっているのかわからないが、もしかしたらまたひょっこり葉が出てくるかもしれないので今の鉢は置いておいて、水差しで根を出してる子たちを土に植え替えてみようかななどと考えている。台風が去ったらホームセンターに行ってみようかな。いつものところより近くにあればいいのだけど、探してみようかな。そういえば、三連休なのだったね。

ワサワサになっている子の葉をすこし切ったり、余っていたりんご味のするほうじ茶と豆乳でラテを作って飲んだらして朝を過ごした。なかなか良い朝だ。気圧以外。目の奥がぎゅうぎゅうで顔面が痛いので、画面を見るのはそろそろ限界かもしれない。暇だけどもうすこし目を閉じて大人しくしていようと思う。

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パセリ、レモン、ミント

急に眠りが浅くなった。睡眠薬の量は増えたのに。たぶん朝の薬の量が増えたせいだ。前も、夜に飲んでいた薬の量が増えたときに同じような状態になったことがある。

薬が切れた途端に胃痛も再発し耐えきれず仕事の昼休みに近くの知らない病院に行った。触診で「胃潰瘍…のような抵抗感はないな…」と言われ、お薬手帳と同じのを出してくれてことなきを得た。胃潰瘍ではないらしい。良かった。とりあえず薬があると安心するのと、とにかく胃カメラを飲みたくない。

胃酸が出て苦しくなるから、と食べる量を意図的に減らすと立ちくらみが増えることがわかった。薬を飲む時間が朝に集中してしまいなんとなく昼が不安なので、薬と見た目が似ているラムネを買ってみた。別にラムネは好きではないが眠気対策にも良いというし……。昼間、とくになにもすることがない時間、本当に眠い。夜、夕飯後もひどく眠い。ぐっすり寝たい。あんなに素材集めに明け暮れていたのに急にソシャゲに対するモチベーションが下がる。食欲と睡眠がやられると一気に元気がなくなってしまう。

 

わたしの夢はいつもさまざまな要素が混じってぐちゃぐちゃなのだが、舞台はたいてい実家か小学校だ。中学校とか高校も稀に混ざって出てくるが、大学の建物のことはほぼ記憶にないのか出てこない。今日は珍しく実家じゃない場所の夢のほうが多かった。あのボロっちい合宿所はどこだろう、あんまり覚えていない。

ある人は「人の夢の話ほど面白くない話はない」と言っていたがわたしは最近よく夢日記をつけている。見えない何かへの密かなあてつけの気持ちもあるが、単純に読み返したときには夢の記憶が全くなく、意味がわからなさすぎて笑ってしまうから、というのもある。嫌な思い出がダイレクトに再現されることは少なく、大抵、何かの組織に追われているか戦っているかしている。いつも自分の仲間がほとんど出てこないところを思うに、精神状態はよく表れていると思う。

 

すこし前までは中学の部活の夢をよく見ていた。バスケをしているのだが体が重くてうまく走れない上に何回シュートをしてもボールが届かない、パスもうまくできない、という最悪の夢だ。最近は全然見てない。記憶がもっと深いところまで潜り込んでいるのかなあとも思う。

 

起きているときにぼんやり思い出すのは小学生だった頃の同級生の父親の言葉だ。運動会の時に徒競走で足の遅いわたしとわたしの親に向かって「今度からもうちの子の引き立て役になってもらわないとなあ!あっはっは」みたいなことを言い放ったのであった。家に帰ってから母が「引き立て役だなんて!」と烈火のごとく怒っていたのは覚えている。わたしは当時「引き立て役」の意味がよくわかっていなかったけれど、要はその子よりも「できない子」として振る舞えばいいのだな、というのはすでにインプットされていたので特に何かを思った記憶がない。それを暇なときに何回も何回も思い出している。何回も、何回も、何回も何回も思い出しては、灰が積もっただけのはずの心の底でちろちろ揺れる怒りの炎を眺めている。

 

ほんとうはもうひとつ思い出していることがあるのだけど、それはまた機会があったら書こうかなと思う。誕生日まであと一週間を切ったのに、世界を呪うようなことばかり考えている。呪いのことは伏せて面談の時間にいろいろ話していると、カウンセリングの先生は「自分の本当の気持ちが芽生え始めたんだよ。それを育てていきましょう」と褒めてくれたが、これを育てるとたぶん世界は滅亡する。それは。それはいいんだろうか。

 

九月、薄情者の部屋

九月になった途端コンビニに並び始めたかぼちゃプリンを見てわたしは夏が終わったことを悟った。ひとびとはイベントごとにパキパキと季節を分けて店を彩っていく。ハロウィンの次はクリスマス、イヴが終わればお正月、みたいに。服売り場では秋にはもう冬服が売っていて、真冬に耐えられなくなってセーターを探しにいくと春服しかなかったりする。四季があって折々の行事ごとを大切にするのが日本の良いところだなんていうが、わたしはひとびとがお金のために勝手に作り出していく「それらしい四季」と「置き去りにした季節」のことを考えては、薄情者、と静かに思う。

とは言うものの、昨日はまた自宅に飾るための花束を買った。知らない種類のコスモスと、われもこう、赤みがかった葉っぱはまたべつの種類のものなのだろうか。先週までひまわりでいっぱいだった箇所は、ピンクの薔薇がいっぱいおいてあった。花の名前は忘れてしまったけれどたくさん花びらのある大きな花もあって、値札には「アンティークピンク」と書かれていた。秋のピンクはどことなくやさしいというか、柔らかいピンクで好きだ。迷ったけれどコスモスが好きなのと、花束になっていてかつ手頃な値段だったのでそれを買った。自分で組み合わせて買うことができたら素敵だろうなと思うけど、選び取ったものを店員さんに見られるのがなんとなく気恥ずかしい。余裕ができたら勉強でもしてみようかな。「余裕ができたら」で横に置いているものがあまりにも多すぎて、そろそろ倒れかかってきそうだ。

 

花束を飾ると部屋にも急に秋が来た。薄情な社会の営みから逃れられなかった薄情者の部屋で、コスモスは可憐に咲き、われもこうはしゃんと背筋を伸ばして涼しげにしている。

 

九月なんていつもなら八月を引きずって暑くて仕方がないのに、突然秋の長雨が始まって終わらない。雨の止んでいる時を見計らって飲み物を買いに行くと、あれだけうるさかった蝉の声はもうしなくなっていて、かわりに秋の虫が鳴いていた。ほんとうの季節までも薄情になってしまったのだろうか。だとしたらそれは人間のせいだな。何も言えない。

この調子だとあと一ヶ月もすれば冬がくる。夏とは方向性の違う死の季節。暗くて白くて静かで、生きものたちがみんな眠るなか、ひとのたくさんいる街ではあちこちがぴかぴかに飾られて光っている。わたしは夏より、冬のほうが好きだ。寒いところで生まれたからというのもあるし、つんとした冷たい空気を吸うとなんだかしゃんとする。あたたかいお茶がおいしい。お鍋もスープもおいしい。ぴかぴかの街で浮かれるひとびとの雰囲気は、照りつける太陽の下ではしゃぐひとびとのそれよりもどこかささやかな感じがして馴染みやすい。今年はどうなるのだか。冬眠するはめにならなければいい、いや、するならするで、一週間全部を冬眠できるようにしてほしい。

雪。雪も好きだ。ぴかぴかの電飾より好き。白い雪であたりが覆われると音も吸い込まれていって、世界に取り残されたような感じがして、それが好きなのだ。あんまり毎日続くと寂しくなってしまうのだけど。地元ではそんな感じ。最近は温暖化のせいもあって、そうでもないのかもしれないが。

 

低気圧なのか二回目のワクチンの副反応の名残なのか、はたまたいつもの虚無なのか。今日も今日とて眠くてだるくて仕方がない。九月は誕生日があるから好き、と、数年前まで思っていたが、自分が何歳になるかも曖昧だし(今年はキリのいい数字なので覚えているが、再来年あたりからまた分からなくなると思う)年を取ったって精神年齢は周回遅れのままだし。「誕生日」というものに対してのポジティブな気持ちがどんどん減っていっている。そうしたら九月のいいところがもう全然あげられなくなって、苦笑してしまった。何もかもが中途半端な自分にぴったりの、夏なのか秋なのかわからない、中途半端な季節なのかもしれない。

 

泥のように眠れない

別に眠くはないのだけれど意識をなくしたくて一生懸命目をつむっていた、ご飯だけはきちんと食べた。薬を飲まなければいけないからというのもある。頭を使わなくていいのでソシャゲの周回をたくさんした。本を読もうとしたけど文字が文字にしか見えなくて諦めた。調子が悪い日だ。昼は何も飲む薬がないから不安だった。夢を見るほど深く眠れなかったけど、ソシャゲの周回と仕事の電話のこと、その他あれやこれやが脳のなかでごちゃごちゃになり、妙に不安な気持ちで目覚めたりした。電車のなかでうたた寝しているときも時々、こうなる。何故だかとても怖い気持ちで目が覚めて、自分が電車に揺られていてあとは帰るだけだということを思い出してほっとしたり。これは一体なんなのだろう。

 

横たわらずにやればできたことを数えても落ち込むだけなのでやめた。お風呂のあとのストレッチもサボってしまおうかと思ったけど身体が勝手に動いた。明日は月曜日だけど以前より憂鬱ではない、というか、今日の時間の流れ方の遅さのほうがよほど絶望的だった。

 

空の段ボールを窓際において植物の日向ぼっこスペースを作った。実際のところ場所を動かしてもそんなに変わらないのかもしれないけどまあ、気持ちだけ。欲張って刈りすぎたミントの心配ばかりしている。葉っぱに茶色い点々がついてるところがあるが病気か、植え替えがうまくいってないのか根詰まりした根は切っちゃっても良かったみたい。待ち望んでいたアップルミントだったのでもしダメにしてしまったら悲しい。

暴力性と赤い花

ロマンチックなものや言葉が好きなこともあれば、そういうの全部燃やして灰にしてその山を踏み潰してやりたい、みたいな気持ちになることもある。明日突然世界が滅亡してわたしの嫌いな奴から順番にくたばればいいのにと思うこともあれば、誰にも何にも死んでほしくないただ心安らかに生きてほしいみたいな気持ちになることもある。どちらのわたしが本物なのだろうと職場のお手洗いで緑色の石鹸を泡立てながら考えたが、答えなんて多分ないのだと思う。生まれた時から暴力的な自我とそうでもない自我が存在していて、それらはしばしば相反する。人間なんか矛盾の塊のようなものだけど、わたしはときどき自分のなかにその矛盾があるのが気持ち悪くてたまらなくなるときがある。だから何をどうするというわけではないのだけれど。脳みそのなにかの特性なのかもしれない。

暴力的な自我は消えない。消えてくれない。ほんとうにずっと怒っている。みんなどうやって自分のなかの暴力性と折り合いをつけて生きているのだろうね、と以前身内と話したことがある。わたしのなかのそいつは赤黒い服を着ている。わたしはそいつを、ひとりで眺めているぶんには嫌いではない。もうひとつのふにゃふにゃの自我よりよほど言っていることがよく分かるからだ。

「わたしの葬式は真っ赤なドレスに目立つリップで棺のなかにはこれまた真っ赤な花をどっさり入れてくれ。骨は、死ぬ前までにお気に入りの木を育てるから、そのへんに撒いてくれ。だから墓は要らない。木の妖精に生まれ変わるから。嫌いなやつは見ただけで呪ってやるけど好きなひととはおしゃべりする」

さようですか。でも死ぬとき葬式をとりしきってくれる人がいるとは限らない。なら生きてる間にと思って、生前葬をほんのちょっとだけ調べた。棺に入れるのかなと思ったけどどうもそういう感じではなさそうだった。まあそうだよな。

 

 

今日は先日花屋さんで見つけて購入したアップルミントの植え替えをした。根っこがぎっしり詰まっていてびっくりした。あんまり上手に植え替えできた気がしないのだけどミントは繁殖力が強いと聞くし大丈夫なのかな。心配だ。ちなみに、ニョキニョキ伸びてる葉たちは摘み取ってミントウォーターを仕込んでみた。明日飲んでみる。収穫が早すぎないか?

しかし葉っぱや土を触っていると気持ちが落ち着くなあと思う。アップルミントは甘くてすっとした匂いがする。好きな匂いだ。

 

今週はずっとずっとずっと眠くて今日は本当に泥みたいに眠りたい。明日はお腹の調子が良かったら近くにある好きなケーキ屋さんでケーキを買って食べたい。すぐ胃がキリキリするのに懲りない。でもこれ新しい薬のせいかもしれないから。もう胃は治ってるかもだから、ね。