死にたがり日記

体調/日々の所感/ソシャゲのこととか

王子、幸せなんかじゃないよ

一般にうつ状態とか希死念慮とか言われているものが、いつもうっすらと自分の内側に存在している。その存在がなんらかの要因によって無視できなくなったときに病院で薬をもらってやり過ごすわけだ。

前者のことは「虚無」、後者に名前はつけていないが「死になさい人間」の声ということにしている。最近は土曜日と日曜日のどちらかは必ず虚無が居座って動けない。また、仕事中ふっと暇な時間が訪れると走馬灯のように嫌な思い出や自分の不出来が駆け巡った後「だからもうあなたは死んだほうがいいんですよ」と死になさい人間が喚く。幸か不幸か、死になさい人間がどれだけ喚いたところで虚無のほうが強い。「生きてたって死んでたって、さほど変わりはないのに、一瞬でも痛い思いや怖い思いをして死ぬ必要がある?」と問われ、わたしはそうだね、ないよねと答える。「生きていて痛い思いや怖い思いをする人が世界にはたくさんいるのに、いまの平穏を幸福と言わないで『死んでいるのと一緒』だなんて贅沢。何もできないのならさっさと死になさい、今すぐ」と死になさい人間はまた怒る。わたしはそれにも、それもそうだね、と言う。生物としての生存欲求と虚無の力が相まって、その綱引きは圧倒的に「とりあえず明日も生きる」の勝利になる。これでいいのかな。本当にこれでいいのかな。悪いことをしているみたいな気持ちで、今も横たわっている。

 

最近、インターネットで見たことについてよく考えている。

この前幸せな王子という童話のことを思い出した。王子様の像がつばめに頼んで、宝石でできた自分の目だとか身体の金箔をはがして貧しい人々に分け与える話。王子様の像はぼろぼろになって、つばめも死んでしまう。小さなころそれを読んだとき、王子様もつばめも良いことをしたけどこんなふうになって可哀想だ、と思った。だけど今はなんだか、世界のいう「善」ってこういうのを求められてるんじゃないか、と思えてならない。◯◯のために命や生活をかけ××のために尽力しました、みたいな。そんなのしなくていいよ、あなたの命だって生活だって大切にしてほしいよ、とその人には思うのだが、わたしは当然王子様にもつばめにもなれない。そこを代わってあげられない。王子様にもつばめにもなれなくて、普通に暮らしているような人間はやっぱりズルくて、死ぬべきなんだろうか。「自分にもできること」を考えるまえにすぐに虚無と死になさい人間に負けてしまう。

それから、連帯、という言葉をどうしても受け入れられない。何か大きなものの一部になることに忌避感がある。そこには同調圧力があって、「それになれない人間」をボコボコにする。それに、集団はいとも簡単に暴走する。手を取ったその隣の人が、いつ暴走してわたしを引き摺り回すかもわからない。今のままではわたしはきっと、その手を振りほどけない。暴走に加担してしまう、多分。ただでさえ、何が正しくて何が間違っていて、自分の何を信じて何を正していけばいいのか、分からないのに。

 

他人のソシャゲのストーリーの感想に一喜一憂していただけの頃と比べれば考えることも増えたが、そのときはそのときで、たくさん傷ついていたのかもしれないなあなどとも思った。文章を読む気力は戻ってきたはずなのにあんスタのストに全然触れない。あれは社会と地続きのお話だから、まだ向き合う勇気が持てないのかもしれない。すこし前に、自分の思いもしないところから、批判とか、誹謗中傷に近いツイートをたくさん見たのがショックだったのかもしれない。批判と誹謗中傷の違いを、いまだにわたしは分からずにいて、インターネットにいるととても怖い。言葉のひとつひとつが、とても、とても怖い。

あんスタの話に戻るが、ストーリーを読まないまま好きなキャラの絵やMVだけで楽しむのもなんだか嫌だな(個人的な楽しみ方の話です)、と思い本当にログイン以外できなくなってしまった。あんスタ自体は今でもすごく好きで、だからわたしの意気地なしのせいでこんなことになっていること、悔しいし悲しい。たかがソシャゲ、されどソシャゲなのである。大事なものをたくさんもらった。このままフェードアウトするのは嫌だな。なんとかなりたい。

 

昼寝をするから夜眠れないと思っていたのに、昼寝をしなくても昨日はうまく眠れなかった。わたしの身体はどうなってしまうんだろう。うすぼんやりと不安だ。