死にたがり日記

体調/日々の所感/ソシャゲのこととか

お茶汲み撲滅委員会活動記録

偉い人の席がある部署がシマの近くにあるばっかりに、なんの関係もない部署の人間であるはずのわたしが来客対応として茶を出さなければならない。わたしは茶を出さなければいけない日の前日や当日の朝が大嫌いだ。隣の部署の課長たちは、わたしが茶を淹れろと言われたとき反抗的な目をするのを知っているから、ちょっと下手に出るみたいに、あるいはせやせや、などとあたかも今思い出したみたいに、「今日なあ、◯◯さんがきとってやから、また頼むわ」と言ってくる。むかつくので「今日なあ」のあたりで「あ、お茶ですか、分かりました」と言って話を終わらせる。

偉い人の来客は毎月の会議の時にやってくるのだが、わたしはその会議の際にもお茶とコーヒーが出ていることを知っている。一体何杯飲み物を飲むつもりなのだろう。それも全部「比較的歳の若い女性職員」にやらせているのが本当に、気持ち悪い。

今日はさらにひどくて、そのひとたちが昼食のお弁当を食べて談笑している時間に課長代理が「コーヒーひとつとお茶ふたつ」などと注文をしにきた。ここは喫茶店でわたしは店員か?どなたがコーヒーですか、と聞くと「それはわからないけど…」とまごつく。うるせえうるせえだったら全員茶でいいだろうが、贅沢しやがって、と思いつつ何度目かわからない給湯室に向かった。コーヒーなんか普段飲まないのでコーヒーカップに適量なのかなんなのか分からない量のインスタントコーヒーの粉をいれて適当に混ぜる。茶は下の階の給茶器で淹れる。最寄りの給湯室にある茶葉はいつのか分からないからだ(これを使って淹れてみて、反応を見るのも良いかもしれないが、わたしにもパン屑くらいの良心はある)。たまたま先延ばしにできない電話が重なったのと片付けのタイミングを待っていたらお昼の時間が大幅に遅れた。どうせ食べたいものもないしやることもないのだが、こんな理由で昼休憩が減ることがどうにも悔しかった。

乱暴に湯呑みを洗いながら、ふっとTwitterの誰かの発言を思い出す。「OLとしておじさんの機嫌とりながら自分もそれなりに得してるような人はそういう生き方を選んでるんでしょ?だったらわたしたちと同じような文句は言わないでよ」うるさい。「声を上げなければ現状は変わりません、勇気を持って。ちなみにわたしは〜」うるさい。そう言えること、そういう心を持っていること自体がひとつの特権ではないのか。でもそういうTwitterの人たちも現実ではわたしみたいに惨めに湯呑みを洗っているのかなと思うと怒るに怒れなかった。昼ごはんの味を本当に、全然覚えていない。

 

夕方、ここを喫茶店と勘違いしている課長代理がいそいそとクッキーを持ってきた。数日前にも同じクッキーを貰った。「いつもお茶を淹れてくれてありがとう。これはお礼だよ」余ってんだろうな。来客に貰ったやつが。数日前は素直に受け取ってすこし食べたりもしたが、今日はどうしてもダメだった。帰って、テーブルに小さいクッキーを八個並べて、握り拳を叩きつける。音の割に割れないので今度はペットボトルの底を打ちつける。だいぶ良い感じになってきたのでさいごは握りつぶしてくしゃくしゃの粉入り袋にして、ゴミ箱に投げ捨てた。フードロスの五文字が頭をよぎるが、もうどうしても口に入れたくなかった。こんなもので。こんなもので奴らはわたしを飼っているつもりなのだ。「女の子はお菓子が好きだから」って?むかつく。本当にむかつく。そんなことばかりだ。時々、できるだけトラウマになるようなやり方で、目の前で死んでやろうかと思う。

 

人間の三大欲求が全部萎んでいることに気づく。この状態が続いたとしてあとどのくらい保つんだろう。もう自分ではどうにも止まれないので誰か止めてくれ。疲れてしまった。そんなのずっと前からで、慣れっこだし、今は明確な悪意をもって接してくる人がいない分楽ですらあるから、我慢できてしまうのだけど。

 

ハンドクリームを塗った途端に湯呑みを洗わないといけなくなったり、ハンドクリームの出しどころが分からない一日だった。荷造りの残りをしなければいけないけど、体が動かない。本当に引っ越すのか?今はとりあえず眠りたい。いつだって眠りたいよわたしは。わたしの眠りを返してくれ。

 

 

 

 

 

悪口だけ得意

悪口だけ異様に語彙が多いと言われたことがある。その自覚もある。そのかわりひとを褒めるのは苦手だ。そういえば乙女座は時々皮肉屋とか批評家とか言われるが、わたしは自分を含め人の悪いところを見つけるのが得意なんだろう。そんな特技いらなかった。

 

DMMブックスキャンペーンの時の自分と読みたい本が違いすぎて、アプリを開いて本棚を見るとイライラする。それでも読めそうな本はもう大体読んでしまっており、今は読みたくない本ばかりが残ってしまった。思えば「読みたい」よりも「読まなければいけない」の気持ちで買った本なのかもしれない。読みかけたものもあるけれど、文体も相まってそっと閉じてしまった。好きな文体と嫌いな文体ってほんとにあるんだなと思った(これは単なる一個人の好みの話である)。読みかけた本は、やさしいようで、まとわりついてくるような語り口だった。まとわりついてくるようなというか、大丈夫、全部わかってるからね、と、何も分かってないくせにうんうん頷いて肩を抱いてくるような感じで、ゲエッとなる。或いは主人公が自分の嫌いな自分に似ていたので、「見られている」ように感じバイアスがかかってそう思ってしまったのかもしれない。知りたい何かがわかるかもしれないと結構すがるようなきもちで手に取った気がするが、最後まで読めるか心配になり、しゅんとなった。いやせっかく買ったのだしいつかは読むが。

宝石の国とかチェンソーマンとか漫画もたくさん買っているが全然読む気にならない。漫画って小説読むより苦手かもしれない。火がついたように一気読みできるときもあるけど、紙で買ったときも大抵買ったままの状態になっている。小説と比べると絶対漫画のほうが読みやすいのになんでなんだろうと不思議に思う。週刊誌の長さなら読めるのだけど。絵もあるしコマ割りもセリフもあるし、情報が多すぎてのめり込みすぎるのがしんどいのだろうか。

 

今日は期日前投票に行ってきた。恥ずかしながらこの歳で投票に行くのは二回目なので無駄に緊張した。裁判官の国民審査のことも最近知った(はずはない、きっと学校で習ったけど今の今まですっかり忘れていた)。有権者であるところのわたしは今までこの権利をほったらかしにしていたんだなと思うとゾッとしたというか、若者がうんたらとか、わたしに限っては言われても仕方ないなという気持ちになった。これからもちゃんと選挙には行こうと思う。

一方であらゆる政治家のこと全然信用してない自分もいて(これもまた勉強不足なんだろうけど)、また同じ政権でも違う政権になってもどうにもならないんじゃないかみたいな気持ちもちょっとある。未来に希望を託してというよりは、ちょっと準備をすれば簡単にできることすらやらないで、なんやかんや言って絶望の顔をしてるのは違うんじゃないかみたいな気持ちで投票した。わたしにもそれくらいできるエネルギーはあるのだし。やらないのはただの怠慢だ。本当は局所的に隕石が落ちてきてくれれば早いのだけど。いい方向にとはもう言わないからこれ以上悪くならないでくれ、世の中。

投票所は電車で一駅先のところで、駅の中にお店がずらっと並んでいるのだけど、やっぱり元気が少ないのでケーキだけ買って寄り道はしないで帰った。あとはお昼寝したり壁のカビを頑張って拭いたり力尽きてまたお昼寝したりしていた。なんか、本当に大丈夫なんだろうか、肉体。でも夜になるとお腹がすいて、ごはんも食べることができたし、ケーキはおいしかった。今は冷蔵庫(アイスも冷やせない冷凍庫が内包されている)の霜が溶けるのをずっと待っている。たぶん明日になっても溶け終わらない。どうしような。

 

気圧のせいだから

最近外食をすることがなくなった。一人でさっさと食べて帰るならいいかと思って、外で食べて帰ってくることなんてザラにあったのに。胃の調子が悪いのもあるけどお店を選んで、料理を選んで、食べて、お金を払うという一連の流れが億劫すぎて直帰してしまう。咀嚼が面倒でご飯を食べたくないなあと思うことはしばしばあったが食べること自体に興味がなくなったことはほとんどなかったので怖い。でもなんやかんやで三食きちんと食べているし仕事もしている(驚くくらいの閑散期)。胃薬はよく効くが飲まなかったときの体調の悪さといったらないので、やはり一度胃カメラを飲まなければならなくなるだろう。嫌だ………前はどうやって治したんだ………そもそも不眠と胃痛が同時に現れたことはない気がするのだが………。

 

何がこんなにストレスなんだろうと内省するが自分を薄切りスライスしているのがまずいのだと思う。しかしそうしないと生きていけないのも悲しいながら本当のところで。日本のジェンダー観の悪いところを凝縮しました!みたいな会社で、「女」というラベルをつけられてなんかお茶入れたりコピーを取ったりするために飼われている自分。それを「良し」とする自分(自分だって何か大きなことの責任を飼い主であるところの「男」に押し付けているのだからこの会社の体制において利益を得ているのだ)。それを「クソ喰らえ」と思う自分(何回茶飲むねんこのお偉い方そんなに飲みたいならてめえらで淹れろ)(たぶんやり方さえ覚えればあの人の仕事だってできるのに)。シスジェンダー異性愛者に混じってあたかも「同じ」多数派であるようにふるまう自分(婚活?あーね…最近はね…。それより◯◯ちゃんの「彼氏」は?)。実のところあんなにたくさんあるセクシャリティの用語の何もかもに当てはまらないようなぼやけた存在である自分(シスジェンダーではあるのだと思う)(地球人を辞めたい)。ひとが好きな自分。人間を憎んでいる自分。自分が好きな自分。自分が嫌いな自分。知ってしまうと知らなかったことにはできないから乖離が生まれて、今わたしの中に何人いる?そういうボカロの歌あったな。十面相だったっけ。

 

なにってだいたい世界が悪いのだけど、だから本当は世界を変えるために怒るのが「正しい」ことなのだろうけど、一度自分の一部を適応させたところから拒絶されるのがとても怖い。わたしは小さい頃から変で弱い子だったので何回も何回も何回も何回も、異物を見るような目で見られた。その恐怖が染みついている。その度に自分を切り刻んで、すこし器用になってからは嘲笑されるまえに自虐することを覚えた。そこまでして、適応させておいて、今さら?とやっぱり思ってしまう。次の世代にはこんな思いさせたくないから?それならわたしもわたしのために怒ってほしかった。誰かに、適切なときに。

 

たぶん嫉妬なのだと思う。「正しい」ひとたちのアカウントを見ることができない。そのひとたちにもきっと普段の生活や葛藤や苦しみや悲しみや疲労があるのを分かっていながら、それでもやっぱり「わたしに持ってないものを持っていて、ずるい」と思ってしまう。ひどいやつだ。自分だってやればもっとできるであろうくせに、なにかと理由をつけてやらないのは最低。

それと、フェミニズムがどうしても自分のものとして浸透しない。そこで語られる「女性」の方よりも、「女性」を踏みつけている「男性」のほうに心が寄ってしまう。それはまあ、わたしが上で書いたような状況下で、フェミニズムの目指す社会を邪魔するような生き方をしているせいだと思う。松田青子さんの「持続可能な魂の利用」(まだ途中までしか読んでいないが)から引用するならわたしも「おじさん」なのだろう。それは内省すべきことだし、ネットで齧った知識しかないから勉強が足りないのは多分にある。だけど、語られれば語られるほど、この世には「男」と「女」しかいなくて、悪いのはすべて「男」(もしくはその身体を持っている人)である、みたいな言論が多すぎる気がする。わたしはそうでないことを日常生活において知っている。だからいつも、フェミニズムにふれるときは何か漠然とした違和感を覚えている。

こんな人権のない国、出ていきたいと言ってしまえる気丈さ。声をあげなければいないのと一緒だ、わたしたちは怒っていい、と言える強さ。いろいろな背景があるにしても特定の属性のひとを「悪」と決めつけ攻撃するひとたちに対する恐怖。

 

「連帯」という、わたしにとってあまりに遠い言葉。

 

正しいとか間違っているとかひっくるめて、三年後くらいに隕石が降ってきて地球が滅亡したらいい。日本は偉い人がたくさん集まっている例の施設から順番に滅びていったらいい。わたしはそれを見たあとわりとすぐ死んで、月か火星かに住む未発見の微生物とかに生まれ変わりたい。次は、人に迷惑をかけないものに生まれ変わりたい。助けてくれ。

眠りたい

「自分がこの世でいちばん可哀想な存在だと思いたいのだ」みたいなことを、何かの本で読んでドキッとした気がすると思ったら今思い出した。宇佐見りんさんの「かか」だった。わたしもそうなのかもしれない。この世でいちばん可哀想なら、やさしさを、幸福を、ぬくもりを、持っているものを、分け与えなくてもいいからって?頑張らなくても許してもらえるからって?馬鹿げている。あまりに汚くて、吐き気がする。ひとに可哀想だと言われたら腹が立つくせに、都合が良すぎる。だからほら、生きたいんだったらくだらないこと言ってないでがんばれ、がんばれ、がんばれ、でもどこまでがんばればいいの?どこまでがんばれば許してもらえるんだろう。他の何を許されなくてももういいから、せめて存在を許されたい。

 

遅刻する夢を見る。汚物にまみれる夢を見る。迷子になってどこへもたどり着けない夢を見る。毎日毎日そんな夢を見る。引越しのための荷造りを七割ほど終えて、出さなければならない書類はもう出して、買わなければいけないものもネットで注文した。だけどまだ何か忘れているような気がして怖い。多分今日もまた同じような夢を見る。引越しが終わるまでずっとそうだと思う。

 

ずっと今の住まいを出ていきたかったはずなのに、引越しの日が近づいても全然心が浮き立たない。場所を変えたところで自分という存在だけはいつまでもついて回る。会社は相変わらずだし、今度は何を変えなきゃいけないんだろう、何を何回変えれば楽になれるんだろうと途方に暮れる。変えられないことだってたくさんある。とかなんとか偉そうに言っておきながら、何も行動してないくせに。いまだに世の中に手を伸ばすのが怖い。誰のことも信用できない。未来に対する希望は結構昔に潰えていて、ずっと惰性で生きている。心のなかを片付けても片付けても何かや誰かに対する嫉妬だとか、憎悪だとか、自分自身や世界に対する諦念だとか、そんなものばかり見つかって、綺麗なものなんて何もない。疲れてしまった。

 

きっと急に寒くなってしまったから、低気圧だから、だから調子が悪いだけ。脳も肉体だから、わたしはこの肉体から逃げられなくて、死ぬまで振り回されるのだろう。起き上がる元気がない。すこしだけ寝たい。

植え替えのこと/いのちのこと

我が家にはステレオスペルマムの鉢植えがふたつある。ひとつは揷し木で増やした分だ。どちらの鉢植えも最近異様なスピードで土が乾くので鉢の裏を覗いてみると根っこがはみ出ていた。シルクジャスミンの鉢の裏にも根っこの影がちらほら。まだモジャモジャしてる様子ではないので迷ったが、まだあたたかいうちにと思って植え替えをすることにした。

きのう仕事がの用事を済ませたあと(この用事がかなり長引き消耗した)、閉店三十分前のホームセンターに滑り込んで新しい鉢と土を買ってきた。四号鉢を使っていたのでひとまわり大きい五号鉢を買ってきたのだがかなりでかい。土も重い。両手に大荷物を抱え駅に着くと電車が止まっていて、帰るの諦めてホテルに泊まろうかな、と一瞬思ったけど、これから引っ越しにより出て行く金のことを考え大人しく別の電車で帰った。

そんなこんなでヘロヘロだったため、いつも五時前には目が覚めるのだが、今日はそこからグズグズと寝たり起きたりを繰り返し、ようやく起き上がれたのが八時だった。いや毎日これくらい寝かせてほしいですけど。できれば中途覚醒なしで。そこんところはどうなのですかわたしの肉体。午前中は日当たりの良い時間なので植物のみなさんには日向ぼっこをしてもらい、わたしはホームセンターに行ったり外出に消耗してベッドに伸びたりをした。そうこうしてたら二時。日陰になってきていい感じのベランダで作業を始めることにする。

土から引っこ抜いてみると、やっぱり全員根っこがパンパンでやばいという様子ではなさそうだったが一部の根っこがかなり伸びており、鉢底にひっついていた。なるほどこれが回り回ると根が詰まってしまうのか。かつて会社で「ひとりひとつ植物を育てよう!」みたいな企画に参加したとき、わたしがもらったステレオスペルマムは大きくなりすぎて根詰まりと根腐れを起こし枯れてしまった。それがかなり悲しかったので今回は早めに動いたわけだが早すぎたのかもしれない。あまり過保護にしても裏目に出てしまうので今後はもうすこし考えたい。

感動したのは揷し木で育ったステレオスペルマムのほうで、立派な根っこがニョキニョキ生えていた。すごいな植物って。本当に強い。葉っぱが生い茂りすぎていると蒸散で水が出ていってしまうというのですこしずつ切り揃えていつもの場所に置いた。やはり五号鉢、でかい。入れものがでかくなっただけで成長しているような錯覚に陥ってしまう。今回植え替えしなかったピレアとミントが小さく見えるがギリギリスペースにはおさまった。よかった。

達成感と共に写真を撮りながらふと思ったのだが、はじめに三百均でシルクジャスミンを買ったのがたぶん去年とかそのあたり、それからあれよあれよという間に鉢植えが四つも増えており、なんかあれかな、精神のバランスを保つために自然と手が伸びたのかな、などと思ったりした。思っていた以上に磨耗していて、すがるものが欲しかったのかもしれない。先日久々に話した元同僚には「凍川はものぐさだから植物枯らすタイプだと思ってたのに」と言われたが、たしかに植物に関することはわりかしこまめにしている気がする。ミントは構いすぎて枯らすくらいだし(どこにいるの こんな雨の中…)。

自分が手間ひまをかければ応えるように育ってくれるのが嬉しかったし、植物はもの言わないが部屋にいるとなんとなく心強かった。なんの目的もなく、楽しいことが減りに減った毎日がちょっとだけ楽しくなって(明日この新芽はどれくらい育っているだろうとか)、どうにか生き延びることができた。感謝している。植え替え後の疲れだとか、わたしの引っ越しによる環境の変化だとか、冬の寒さに耐えてまた元気に育ってほしい。

そういえば、元同僚に言われた「植物枯らす側の人間だと思ったのに」という言葉で小学生のとき授業の一環で二十日大根を育ててていたことを思い出した。水やりが億劫で畑を放っていたら野菜がしおしおになってしまって、同級生ともども先生に叱られた。「野菜にも、植物にも命があるんだよ」って。わたしはそれを聞いて、なんてことしちゃったんだろう、わたしはこの子たちを殺しかけたんだ、と思ってすごく泣いた記憶がある。田舎だったこともあり、きっと虫も植物もそのへんにあるものとか、遊び道具の一部、みたいな認識しかなかったから、先生の言葉が衝撃的だった。義務教育時代の思い出なんてろくなことがない、先生も好きな先生より嫌いかどうでもよかった先生の方が圧倒的に多いけど、生きていく上で大切なことはちゃんと心のなかに残っていて、ふとしたときに、ころん、と出てくるのだなあと思った。

同じ人間の命ですら守られないような国だ。自分が生き延びるのに精一杯なのはなんかとても情けない。でも、わたしはせめてあのとき「なんてことしちゃったんだ」って泣いたときのわたしのことを捨てずにはいたいと思っている。それだけで何ができるの?という話ではあるのだけど。

いまからごはんを食べます。あまり時間が経ちすぎるとまた食べる意欲を失ってしまいそうだから。

剪定

栄養栄養って思ってたけど今日ぷつんと糸が切れて「食べたくないんだからもう食べなくていいじゃん、もし倒れたら会社行かなくていいし」になってしまった。マジで胃に何か問題があるのか日照時間の減少による抑うつなのかわからない。どうでもいいがウィダーって、もうウィダーって名前じゃないんだって今日はじめて知った。一日一個を目安に召し上がれと書いてあるのを思い切り無視した。こんなペースで痩せていったことなどなかった!と思い不安になったがなんか前も胃痛でなにも食べられなくなったこと自体はあったなとすぐ思い出す。どうしてたんだろう。根性で飯を食べてたんだろうか。これが二十代と三十代の肉体の差なのだろうか、などと、三十になって半月ほどしか経っていないくせに大人ぶる。そういえば白髪もやたら増えた。鏡を見てるときらっと光って、かき分けてみるとたくさん見つかる。ストレス!!ストレスですよこれは!!!いやなんかパーマとかやたら当てたい時期あったから、パーマとカラーを繰り返して痛んだんだと思う。髪も皮膚?だと思うし、わたしは皮膚が弱いし。

いまひそかに胃カメラの病院を探している。引っ越しとかぶると面倒だし、薬あるし、行くのは引っ越し後にしようかな…できたらなんかこう寝てる間にやってくれるとこがいいな…あるんだよねそういうのが…知らないけど…いやそもそもやりたくはないんだけどな…穴という穴に何かを突っ込まれたくないので歯医者も耳鼻科も婦人科も全部嫌いだ。

 

帰ってきたら手洗いうがいをして食前の薬を飲んでから植物たちの状態チェックをするのだがミントが育ってきて嬉しい。恐る恐る摘芯してからわき芽が突然育ち始めて面白い。いま育てているのはかつて花屋で買った鉢植えのうち、生き残りの一本なのだが、地下茎とかってどうやって育つんだろう。この一本がなんか増えたりとかするんだろうか。我が家にはミントを含め五つの鉢植えがあるが、みんな元気で日に日に大きくなっていく。棚の上がちょっとした森のようだ。緑と触れ合っていると落ち着く。この子たちはとてもたくましい。余計な枝葉を切るように、わたしもこれから余計なものを全部切り捨てられたら楽なのに、と思う。

 

最近最果タヒさんのエッセイを読んで、「こんなに何を言っているのかわからないけどわかる…わかるけどわからないエッセイは初めてだ…」みたいな気持ちになった。タヒさんの詩が好きで詩集をいくつか持っていて、その延長線上で買っていたエッセイを積んでいたのであった。ツイッターでも呟いたが本当に、独自の言語体系のもとに生きているひとなのだと思う。なのに不意にガラスの破片のように心に突き刺さったりもするから不思議だ。才能、わたしは才能という言葉が好きじゃないが、でも才能なんだろうなあ、いいなあ、と思う。わたしにはそれがなくて、一生「いいなあ」と思う側の人間で、いつも直視しないようにしているけど、ふと気づくと全身が黒いヘドロみたいなものでどろどろに汚れている。何に触れてもそう、大好きなものはいつだってわたしの生み出せないものだから、いつもすこしだけ嫌い。元気じゃないと、うまく触れられないこともある。じゃあ自分の生み出すものを愛せよという話だが、それはふつうに嫌い。厄介だな。厄介だ。わたしにも、何か与えてほしかっただなんて言ったらバチが当たるかもしれないけど(安全に生きてるだけで贅沢すぎるくらいの世の中だ)、本当に、なんにもないから、なんにもないってバレるのが怖くて、逃げ続けている気がする。何かから。ずっと。この世も怖いが、振ったら音がするくらい中身のない自分がいちばん怖い。生きるのってどうしてこんなに。

 

人生が透明

昔から自分の人生を生きている感覚が薄い。そういえばそうだと思い当たったのは引っ越し先が決まって疲れて部屋でボーッとしている時で、自分の人生とは……と考えかけて眠くなってやめた。

わたしは誰かの人生の「なにかしらの役柄」になって、そこに寄生しながら生きてきたのではないかしら。ひとつの役柄が終われば次の役柄へ。それが終わればまた次へ。できる限りその人の都合の良いような子でいた。できなかったこともたくさんあったけど、まあまあギリギリのラインで「合格者」しつづけつつ今に至る。

 

一度だけ、明確に「いやだ」と思ったことがあった。数年前、周りの雰囲気に流されてコンカツなるものをしていた時だった。コンカツというのは男と女が結婚するための活動だ。そのための催しに何度か参加した(ほぼ、同僚に「させられた」ようなものだったが、その頃のわたしは「同僚の良き友人役」だったので断れなかった)。

まあ場所が場所なのでみんな人生のパートナーを求めていた。だけど人生のパートナーの定義がわたしと全然違った。わたしはシスジェンダーの女性であり、相手はおそらくシスヘテロの男性、であった。わたしはたぶん、その人に彼女お嫁さん妻お母さん家事する人或いは性行為する人候補、として見られていた。世の中の大半の人はこれをうまくこなしくているが、わたしにとってそれは人間の役の域を超えていた。とうとう人間以外の役柄が回ってくるんだ、たとえばこの人の手を取ったその瞬間わたしの人生はこの人の人生に吸収合併されるんだ、と思ったとき、全部全部馬鹿らしくなった。なんかそれだけはどうしても嫌だった。だって一生だ。今までくるくる変わってきた役割が、一生。病めるときも健やかなるときも?死ぬまで?やりたくもないのに?怖くなったので、活動を全部やめた。今思えば本能だったのだと思う。「そのかたちは明らかにおまえに合っていない、今度こそ死ぬぞ」というかんじの、アレ。たぶんわたしは世の中の多くの人と、そのあたりのかたちがズレているのだ。いかなる目的であっても性行為もしたくないしお嫁さんにもお母さんにもなりたくない。

わたしの演じ方はツメが甘いから、数時間や数年間は保っても、一生世の中の多数派の役をすることは不可能だ。あのまま続けていたらどこかでボロが出て、余計な傷を負っていただろうし、負わせ続けていただろう。

 

わたしは人に干渉されたくない、と思うことがとてもとても多いのだが、それはひとたび干渉されるとその人の人生にくっついて勝手になんやかんやを演じてしまうからなのだと思う。自他の境界線が曖昧なのだ。それを便利に使って自分の快適のためにわたしを使う人もいれば、わたしが勝手にくっついて傷つけた人もいた。部屋を暗くして、ひとりでこうして日記を綴っていると、で、これまでのわたしの人生って結局なんだったんだろうな、と考えざるを得ない。そんなもの求めてないで、寄生して生きてきた分や人を傷つけた分、償えないならこれ以上罪を重ねる前にさっさと死ぬべき、とすら思うこともある。いつになればわたしは「わたし」として人前に立つことができるんだろう。いくら口で、ペン先で、「わたしはわたしの人生を生きる」と言っても、黒い何かに足を引っ張られているような気がしてならない。

 

 

冒頭にも書いたが引っ越し先が決まった。親と一緒に内見に行くことで安心している自分がいて、それが子供じみていてほんとうはすこし嫌だった。久々に親の顔が見れたのは良かった。元気そうだったし。遠くから来てもらうのはちょっと申し訳なかったな。やっと今の住まいを出ていけると思うとすこし食欲が増したような気がしたが、スーパーで食べ物を見て回るだけでお腹いっぱいになった。おそうざいを見ると油の味が口に広がってウッとなってしまう。多分身体は回復してるけどそれなりに大きな決断をしたので心が少し疲れたんだと思う。今日はずっと布団でうとうとしていた。しゃんとしてきたら、買うものリストと引っ越し業者探しをしなければならない。

ピレアが元気だ。下の方の古い葉っぱを切るとえらくスマートな感じになってしまったがこの子は本来こんもり型なのではないだろうか?ステレオスペルマムとシルクジャスミンはぐんぐん伸びる、けど、そろそろ寒くなってくるのでおやすみの時期かな。ミントは新芽が伸びてきて、節のあたりにふさふさの毛が生えてきた。脇芽も見えてきたけどこれはそのままでも伸びてくるんだろうか。新芽を摘んでしまった方がいい?すこし様子を見る。枯れたほうのミントの鉢はベランダの、たまに日向になるところに置いて水をやったりして様子を見ている。根腐れしている可能性が高いが鉢を解体するべきか迷う。根は張っているみたいだけど…。

あと、最近見なかったコバエが復活してきたのでまたスプレーを使った。罪悪感がすごいので、可能な限り使いたくないのだが…。